LOGIN五年前の六月十四日。
神崎紗良は、朝から小さな箱を何度も開けたり閉じたりしていた。
箱の中に入っているのは、高価な宝石でも、玲央への贈り物でもない。産婦人科でもらったばかりの薄い冊子と、超音波写真だった。
まだ、何が写っているのか説明されなければ分からないほど小さい。
医師から「妊娠しています」と告げられた瞬間も、紗良はすぐには実感できなかった。
嬉しい、と心が追いつくより先に、医師の口が動いていた。
「まだ初期ですから、無理はしないでくださいね。少量の出血くらいなら起こることもありますが、強い痛みや出血があればすぐ受診してください」
「はい」
「ご主人にも、なるべく早めに話しておいたほうがいいですよ」
「……そうですね」
そう答えたとき、紗良は笑えていたと思う。<
第27話 俺はまだ彼女を愛している 神崎玲央の月曜日は、朝七時半の役員会議から始まった。 海外事業部の収益見通し、来期の設備投資、傘下ホテルの稼働率。午前中だけで三つの会議を終え、昼食は執務室で資料を読みながら済ませる。 以前なら、それで何の問題もなかった。 むしろ効率がいいと思っていた。 ところが最近は、十二時を過ぎると妙なことを考える。 陽向は今ごろ何を食べているのだろう。 保育園の給食は、毎日献立が違うのだろうか。 ピーマンが出た日はどうしているのか。 嫌いだと言いながら、本当に一口も食べないのか。「社長」 宮坂の声で、玲央は手元の資料から顔を上げた。「何だ」「先ほどから同じページを三分ほどご覧になっています」「読んでいる」「そのページ、昨日も確認済みです」「もう一度読んでいる」「では内容を伺っても?」「……」 玲央は資料を閉じた。「嫌な秘書だな」「長く仕えておりますので」 宮坂は悪びれず、次の書類を机へ置いた。「十四時からの財務会議ですが、予定どおりです。それから、会長夫人から今週末の食事について、再度ご連絡がありました」 玲央の顔からわずかに表情が消える。「断ったはずだ」「先方のお嬢様との顔合わせではなく、今回は親子だけで食事をしたいとのことです」「母と?」「はい」「何か言っていたか」「電話では『最近、玲央の様子がおかしい』と」「ずいぶん曖昧だな」「具体的には
第26話 嫌いになれたら楽だった 月曜日の朝、紗良は目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。 隣では陽向が布団を半分蹴飛ばし、枕から頭を落としかけた格好で眠っている。昨夜は公園から帰る電車の中でほとんど寝ていたくせに、帰宅すると急に元気を取り戻し、玲央から聞いた電車の話を思い出しては「あれは知ってた」「これは知らなかった」と延々報告していた。 父親と会った日。 その言葉だけを聞けば、もっと大きな事件になっていてもおかしくなかった。 ところが陽向にとっては、どうやら「玲央おじさんと電車を見た日」であり、「ココアを飲んだ日」であり、「少しだけパパっぽかった日」でもあるらしい。 子どもの受け止め方は、大人が恐れるほど劇的でも、単純でもない。 紗良は陽向へ毛布を掛け直し、静かに寝室を出た。 キッチンで湯を沸かしながら、昨日の玲央を思い出す。 アイスをねだった陽向へ、母親の判断を優先したこと。 知らない電車について、知ったふりをしなかったこと。 陽向から「まだパパか分からない」と言われても、傷ついた顔をしながら受け入れたこと。 そして別れ際。『次もちゃんと聞いてください』 自分は、そう言った。 陽向の話だけではない。 私の話も。「……何言ってるんだろ」 湯気の向こうで、自分へ呆れる。 五年前は話を聞いてほしかった。 今はもう別れた。 悠真との再婚も考えている。 それなのに今さら、玲央へ「私の話も聞いて」と言うなんて。 どこまで欲張りなのだろう。 五年前にもらえなかったものを、今の玲央へ求め始めている。 その事実に気づくと、胃のあたりが重くなった。
第25話 パパって、どんな人? 翌週の日曜日、陽向は朝から落ち着かなかった。 朝食を食べながら何度も時計を見て、まだ九時を過ぎたばかりなのに「もう行く?」と聞く。約束は午後一時だった。「まだ早いよ」「でも電車の公園、遠いじゃん」「電車で三十分くらい」「じゃあ十一時?」「早すぎる」「十二時?」「それでも早い」 陽向は不満そうにトーストをかじった。「玲央おじさん、もう来てるかもしれないよ」「たぶん来てない」「なんで分かるの?」「この前、早く来すぎないって約束したから」「お父さんなのに約束いっぱいあるね」 紗良はコーヒーカップを持つ手を止めた。「そうだね」「普通のお父さんも?」「家族には約束って必要だよ」「悠真先生も結衣ちゃんと約束する?」「すると思う」「お母さんと僕も?」「毎日してるでしょう。夜九時には寝るとか、お菓子はご飯の前に食べないとか」「それは約束じゃなくてルール」「都合のいいところだけ分類しないで」 陽向は笑った。 父親が玲央だと分かってから、一週間。 生活が劇的に変わったわけではなかった。 玲央から陽向へ直接連絡することはない。陽向が会いたいと言ったときだけ紗良を通すという約束を、今のところ守っている。 美佐子にも何も伝えていない。 会社にも。 その事実が、紗良の警戒心を少しずつ緩めていた。 全部ではない。 でも、ゼロでもない。
第24話 元夫だから何ですか 日曜日の夜、陽向は布団へ入ってからも、なかなか眠ろうとしなかった。「お母さん」「なに?」「玲央おじさん、次いつ会う?」 枕元の灯りを消そうとしていた紗良の手が止まる。「今日会ったばっかりでしょう」「だから次」「そんなすぐ決めるものなの?」「約束しないの?」「約束っていうか……」 紗良はベッドの端へ腰を下ろした。 陽向は毛布から顔だけを出している。「また会いたい?」「うん」「本当に?」「なんで何回も聞くの?」「大事だから」「会いたくなかったら言うよ」 確かに。 陽向はそのあたりを妙に遠慮する子ではない。「何したいの?」「公園」「今日行ったよ」「違う公園」「公園なら何でもいいの?」「電車見えるところ」「ああ、あそこね」 少し離れた河川敷近くに、線路を見下ろせる公園がある。 陽向の好きな場所だ。「玲央おじさん、電車知ってるかな」「恐竜よりは知ってるんじゃない?」「ほんと?」「たぶん」「じゃあ聞く」 もう次に会う前提になっている。 紗良は少しだけ複雑な気持ちになった。 嬉しくないわけではない。 玲央が父親だと知ったことで陽向が拒絶しなかったことには、正直ほっとしている。 けれど同時に
第23話 陽向は僕の家族でもあります 恐竜パンケーキが運ばれてきたとき、四人の間にあった微妙な緊張は、ほんの少しだけ形を変えた。 皿の中央には、どう見てもティラノサウルスには見えない緑色のパンケーキが置かれている。店側としては恐竜らしさを出すためなのだろうが、背中に三角形のクッキーが何枚も刺さっているせいで、むしろステゴサウルスに近かった。「これ、ティラノじゃないね」 陽向が真剣な顔で言った。「メニューには恐竜ってしか書いてないよ」 悠真がメニュー表を指差す。「じゃあ何?」「何だろうな」 玲央まで皿を覗き込む。「ステゴサウルスっぽい」「おじさん分かるようになったじゃん!」「勉強した」「すごい」「この程度で褒められると複雑だな」 紗良は思わず笑った。 つい数週間前まで、玲央が恐竜の種類を調べている未来など想像もしなかった。 陽向はナイフを持とうとして、すぐ紗良に止められる。「お母さん切って」「はいはい」「頭からはやめて」「どう切っても最終的には食べるんだけど」「そういう問題じゃない」「大事なんだね」 悠真が笑う。 紗良が胴体の部分から小さく切り分けると、陽向は満足そうに頷いた。「おじさんも一口」「約束だったな」 玲央は観念したようにフォークを取った。「悠真先生も」「僕も?」「同じテーブルなんだから」 陽向の中では、そこにいる人間は全員参加らしい。 悠真も断らず、小さく切った一
第22話 この人が久世先生 日曜日の朝、紗良はいつもより少しだけ早く目を覚ました。 カーテンの隙間から入る光は柔らかく、キッチンへ立つと、まだ冷えた床の感触が足裏へ伝わってくる。冷蔵庫を開け、卵と牛乳を取り出したところで、今日は何を作るつもりだったのか一瞬分からなくなった。 昨日、陽向と約束した。 父親が誰なのか、今日きちんと話す。 たったそれだけのことなのに、契約金額が何千万も動くプレゼンより緊張している自分がおかしかった。「フレンチトーストにしよう……」 陽向の好きなものを作れば話しやすくなるかもしれない、などと考えたところで、それでは子どもを食べ物で釣っているみたいだと思い直す。 けれど結局、フレンチトーストを焼いた。 母親というものは、ときどき自分でも理屈の分からないことをする。「いい匂い」 寝室から、髪をあちこちに跳ねさせた陽向が出てきた。「おはよう。顔洗っておいで」「今日フレンチトースト?」「そうだよ」「なんで?」「日曜日だから」「昨日の日曜日じゃない日は普通のパンだった」「細かいこと気にしない」「お父さんの話するから?」 いきなり核心へ来た。 紗良はフライ返しを持ったまま振り向く。「……覚えてたんだ」「約束したじゃん」「そうだね」「お母さん忘れた?」「忘れてないよ」「じゃあ食べたら?」「食べてから話そう」「今じゃだめ?」「焦げるから」 陽向はフライパン